それは、、、(店主の独り言)

こちら東京では数日前に春一番がふきそろそろ春の足音が聞こえてきそうで聞こえなさそうで、、、そんな今日この頃。
パソコン内の画像を整理しておりましたら、以前手元にあった茶碗の画像が出てまいりました。
数年前に手放してしまいましたこの江戸中期から後期頃の絵唐津の茶碗ですが改めて画像を見ながら う~んと唸る店主でございます。
何を唸る必要が?と申しますと、、、
その文様なのです。

「これは草なのか、はたまた鳥なのか、、、」

まぁたぶんに次々と仕上げなくてはならない状況でちゃっちゃと描いたのが本当のところなのでしょう、、、
しかしながら後の世に私のようなものの手元で う~んと唸られる存在になるとは当のご本人も思ってはいなかったでしょうね。
そんなことを考えておりますと、
この絵を描いた約三百年ほど前の職人さんとの対話のようで楽しくもあります。
確か入手した当時も自身でそんなことを思ってこの画像を残したように思います。
そしてその数年後にまたもや う~んと唸る店主でございました。

令和三年2月某日
キタロウ商店 店主 拝

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【出張買取】東京都世田谷区にて小泉仁左衛門の鉄瓶他をお買取りいたしました

『八代 小泉仁左衛門』

八代 小泉仁左衛門の鉄瓶をご売却いただきました。
小泉仁左衛門とは現代まで今なお続く南部盛岡の御釜師でございます。
当代は十代仁左衛門(小泉清明氏)
さて、小泉仁左衛門について少しだけご説明をすることから始めましょうか、、、
小泉仁左衛門、、、万治二年に盛岡藩二代藩主である南部重直が茶の湯窯等を藩内で作ろうと思いたち、京都の小泉清行が釜師として召抱えられたのが始まりでございまして、その後宝暦年間に三代目となる清尊が現在の鉄瓶の原型を製作いたします。盛岡藩からは「御釜師」という屋号もいただき、それから三五〇年脈々とその技術は受け継がれており当代の十代清明氏まで続いております。

さて、今回のご依頼品である「八代 小泉仁左衛門」についてですが、
八代清信は明治七年に生まれ その後の度重なる不幸を乗り越え釜師としての腕を磨き、明治二十六年八代目を襲名いたします。シカゴ万博への出品、国内での賞を数々受賞し 明治四十一年には当時の皇太子(後の大正天皇)の御前にて鉄器制作の実演をいたします。この頃より全国的に南部鉄器が知られることとなります。また後進の育成にもその情熱を傾け沢山の名工が育ちました。
しかし、時は移り昭和に、、、大東亜戦争による金属類回収令にて鉄器類の制作が困難な時代へと飲み込まれていくこととなるのでした、、、


●もう少し八代そして九代をお知りになりたい方はこちらを↓
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茶道具としての鉄瓶等の買取をいたしていおります。
お茶をそろそろやめようかしら、、、
母が残したお茶道具類はどうしたら、、、
そんな時は一度ご相談ください。
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旅日記という名の、、、 (店主の独り言)

旅日記とタイトルにはございますが
片道150km時間にして2時間半ほどの場所への出張買取のご依頼でございました。
場所は千葉県いすみ市

久しぶりに綺麗な海をみました。
齢を重ね多少はタフさを身にはつけていた気がしていましたが、、、
いろいろと大変な世の中となり、身につけたそのタフさではいささか乗り越えられないのか、
殺伐とした世の中にやはり心が少し疲れていたようです。

しかしこの海を見て気持ちが前向きになりました。

海は怖くもあり
そして優しくもありですね。

このような拙文の場所へたどり着く方がはたしておいでになるのかはわかりませんが
こんな拙い写真と駄文でもみてお笑いくださいませ。
笑いは大事です。

さて1月もまもなく終わり2月へと変わります。
キタロウ商店も出張買取のご依頼があれば西へ東へ北へ南へ可能な限り走ってまいります。

令和3年1月某日
キタロウ商店 店主 拝

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お問合わせ

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【出張買取】神奈川県横浜市にて愛新覚羅溥傑書他、工芸作家作品など多数をお買取りいたしました。

『愛新覚羅溥傑 書』

横浜市のお客様よりご依頼を受け「愛新覚羅溥傑」の書をはじめ多数の工芸作家作品をご売却いただきました。
「愛新覚羅溥傑」は、あのラストエンペラーという映画にもなりました清国最後の皇帝(十二代)にして満州国皇帝(執政ののち)でありました「愛新覚羅溥儀」の実弟でございます。現在七十代の方はご存じでしょうが今の世ではそのあとの世代の方には近代史がお好きでなければご存じないのかもしれません。
さて、溥傑といえばその妻である嵯峨浩が個人的には頭に浮かびます、昔読んだ「流転の王妃」という本のせいかもしれません。
嵯峨家は明治天皇の母方と血縁関係でもある公家華族でありました。そのご成婚はあの当時の沢山人々の思惑が渦巻く中「政略結婚」の意味合いは否定できませんが、昭和十二年2月お二人はご結婚なされました。当時嵯峨家のお屋敷は杉並区にありここより結婚式場であった九段会館まで車で向かう浩を乗せた車を一目見ようと、その沿道には沢山の子供から大人までが日満の旗を振り祝ったそうでございます。私もその当時の物であろう写真を何度か見たことがございますがその写真に切り取られた風景には祝福の文字しか浮かばない光景がそこにはございました。その年にお二人は満州国へ渡られます。翌年には長女であらせられる「慧生」が誕生。昭和十五年には二女「嫮生」誕生と幸せな時は続きます。しかし日本の敗戦色濃くなる中、昭和二十年、ソ連の参戦侵攻をうけ満州国は大混乱に陥り愛新覚羅家は各地を流転していくこととなります。
このソ連の参戦侵攻の中、沢山の、、、本当に沢山の日本人の軍関係はもとより民間人の命が奪われていったのも現在の日本人は消して忘れてはいけない事実でございます。しかしながらそれが戦争というものなのです。
少し「溥傑」のことよりはなれたお話を書きすぎてしまいました。この拙文を読み少しでも愛新覚羅家および満州国や関東軍、ソ連の参戦にご興味がわきましたということであれば是非一度その時代のことを書いた本が沢山出ております、思想的に偏ったものもあるかと存じますがお読みいただくことをお勧めいたします。

さてさて、「愛新覚羅溥傑」の書について少し資料をこの場に残し筆を置きます。

画像は昭和50年代の溥傑の直筆銘と落款でございます。まるで流水がごときと称された氏の独特の作品ではございますが一部には沢山の書を仕上げねばならない場面が多かったためか書自体がが少し荒れているものや落款のずれがあるものがございます。また書体もその時代により変化いたしますし落款は他にも数種類ございます。

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【出張買取】東京都大田区にてNIKON S3 他を出張買取にてお譲りいただきました

『NIKON S3』

ニコンS3は、昭和33年3月(1958年)~昭和35年10月(1960年)に製造されたもので それまでのS 2の後継機種であるとともにSPの普及機種との位置づけされたカメラでございました。
生産台数は12.000台。
レンズはボディがクロームですとニッコール(NIKKOR-S)5cm F1.4 または 5cm F2が標準で付いていたようです。
少数生産されたボディがブラックとなりますと5cm F1.4が標準にてついておりました。
昭和35年に一度生産を中止したS3ですが昭和39年に東京オリンピックの報道機関用カメラとしてブラックボディで再生産されました。手元の資料では完全な再生産台数がわからないのですが約2000台ほど生産されたようでございます。
レンズはブラックペイントの50㎜ F1.4と元々のS3と見た目のブラック以外変わらないように思いますが、ちょっとマニアックなお話とはなりますが旧型のゾナー型からガウス型5群7枚の物に変わっております。
マニアックなお話のついでにこのオリンピックモデルにはフィルムサイズをハーフサイズにしたものが存在いたします。
ところで、ハーフサイズって?とカメラのことをあまり知らない方に説明すれば、
通常のフィルムサイズは36mm×24mmなのですが、その半分のサイズ17mm×24mm(または18mm×24mm)にしたものということです。
昔々はフィルム代の節約といった側面だと私は理解してますが通常の倍撮れるこのハーフサイズ仕様の一般庶民向け小型カメラ(オリンパス ペン、リコーハーフなど)が多数販売されておりました。私も昔々使っておりました。その独特な写りに面白さを感じて出かけるときはバックに入れていたりもしましたね。
さてさて話を元に戻しますと、このオリンピック、ハーフサイズモデルはS3Mというモデル名でして、なぜハーフサイズにしたかと申しますと上記の小型カメラとは別の考えの元設計販売されたのですが、要はオリンピック競技の動きある被写体をモータードライブでの高速連写撮影を可能にするために必要な変更(改造?)でございました。
しかもこのハーフサイズのオリンピックモデルはボディカラーがブラックとクロームモデル合わせて一説には165台しか生産されておらずその圧倒的存在数の少なさからかなりの高額での取引となっております。
この原稿を書いている私が中古カメラの世界に入った20数年前は美品のもので当時の中古カメラ市では100万円ほどの値段が付いておりました。現在でも100万円を超えた売値にて出ているそうですが、、、
数年前までは中国や中東の裕福なコレクターの方が購入したそうですが今の世界経済的に見れば、、、うーん。(汗)

さて、そんなS3でございますが実は2000年に復刻生産をいたしまして、、、
そのことにより当時物のS3の中古相場は下がり続けてまして
その上、近年ではその復刻版も販売から20年が経ち中古市場にもそこそこの数が出てきてきてしまいまして、
市場原理から申せば当たり前といえば当たり前ですが、市場にあふれ出した物の価値は下がるのが道理。
結果、悲しいことにオリジナルS3は20年ほど前は美品ですと30万近い中古相場でしたが現在では美品に近いまぁまぁのコンディションの物でも10万円ほど、使用感のある傷が多い個体ですと現状販売5万円というものも見かけますし以前某カメラ店で4万円(状態はよろしくはありませんでしたがレンズ付きで、、、)というのも見かけたことがございます。
現状販売にせざる負えないのはカメラの修理が出来る腕の良い職人さんが減ってきていることとその修理や調整代がそこそこのお値段(たとえばシャッターの修理で2万円から)ですので、あそこもここもと修理や調整などしてしまうと、、、実勢販売価格を超えたりします。
中古カメラ販売側からみますと販売価格にその職人さんへの修理調整代を上乗せすることができないからということが一番大きいかと思うのです。
あ、、、他にも色々と書きたいことはございますが、あまり業界内の事情を書いてしまうと関係方面から怒られてしまうかもしれませんのでこの辺で。

ご家族がお集めになっていたカメラなど発見いたしましたら誠意査定、買取をさせていただきますので、是非キタロウ商店までご連絡いただけましたら幸いでございます。