『記憶』

私の仕事、、、イヤ、仕事といいますか、、癖といいますか、、
日々お買取りをご依頼いただき様々なものを手に取っておりますと
その一点一点の物たちからいろいろな声が聞こえてまいりまして、、、

声が聞こえる

などど申しますと
「あら、この方霊感でもあるのかしら?(笑)」
等想像していただいてしまうかもしれませんがそのようなことではなく
その物について深く調べたりしてしまうと結果的にそのものがいろいろと語りかけてくる気がするということでございます。

過日、古いお写真をお譲りいただき整理をしておりますと
一枚の写真が目につきました。

上野動物公園他遠足

上野動物園象

遠足の記念写真
このお写真類のお買取りをご依頼いただきました大祖母様が教育関係者であったとお聞きしておりましたので
このような遠足や卒園時の記念写真が多数ございました。
その中の一枚は多分上野動物園かと思われる場所で象さんを後ろに記念撮影をされたもの。
現代の保育園幼稚園ではこのような記念写真を撮ることはあまりないのでしょうか?
そもそも子供が少ない現代では記念撮影をしてもこのように大人数ではないのかもしれませんね。
因みに私の保育園時代の写真には母ではなく祖母が一緒に写っておりましたっけ・・・
さてさて、大正から昭和初期のお子様たちの楽しそうな顔を見ながら
あぁ楽しそうだなぁ、、などとその沢山の写真を手に取り見ていきますと少し大きな茶封筒に別にされた写真類がありました。
さて、次はどこへ行った記念写真かな?と封筒をあけて写真を取り出ししてみますと、、、

ああ、、、

そうか、そうだろうな、、、
と、ひとり呟いてしまいました。
その写真は、、、

帝国婦人会

戦中まで三宅坂にありました陸軍省前や靖国神社前?での記念写真
大日本国防婦人会のタスキをかけた割烹着姿の女性たちの集合写真

戦争という時代の流れが一気に茶色い封筒の中より出てきたようでした。

楽しい子供たちの遠足写真から一転して、、、

この写真が撮られたあと東京が空襲をうけ焼け野原になるまでに
沢山の時間を要することはありませんでした。
割烹着にタスキ掛けの婦人達も戦況が悪化する中、割烹着からモンペ姿になっていき
そして、
ここに写る子供らは疎開ができたとしても子供らの父や母や兄弟は、、、

教育関係者であったというこの写真の持ち主様
すでに他界されており、そのお心うちをお聞きすることはかないませんが
他の子供らの遠足の写真や卒園時?の写真は何度も見た形跡がありましたが
この戦時下で撮られた写真だけはあまり封筒から出した形跡はないようにみえ
意図的に開けなかったと思われます。
やはり思い出したくはない記憶であったのでしょうか。
教育関係者であったのであればなおさらだったのかもしれません。

~~~~~~~~~~~~~~~~

上野動物園の象さん
歴史を紐解けば
明治21年 シャム皇帝より贈られたアジアゾウのペア初来園
大正14年 アジアゾウの子供「ジョン」「トンキー」来園
昭和10年 タイ国少年団より雌アジアゾウ「花子」が到着
とありました。(※出典:上野動物公園の歴史 https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ueno/history.html)

記念写真に子供らと一緒に写っているのがどの象さんだったかまでは調べることが出来ませんでしたが
上野動物園に居た象さん含め沢山の動物たちは
戦時猛獣処分(空襲で檻が破壊され猛獣が脱走することで起こりえる事故を防ぐ為)により昭和18年8月より殺処分が行われました。
上野動物園を皮切りに全国の動物園、サーカス等に居た動物たちが殺処分されました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

沢山の写真を手に取り考えても考えても
様々なイメージは浮かんでくるもの戦争など二度と繰り返してはいけないと思いつつも、
しかし、この世界から争いが無くなることはないのだろうなとも思うのです。
右、左に傾きすぎた人たちが対局の排除を考える。
排除は暴力を生みます必ず、、、
結局は私にできることは戦争はしてはならないと思い願い続けることだけなのかもしれません。

今世界で起こっている紛争や戦争が一日でも早く終わることを心から祈り筆を置くことにいたします。

令和四年八月 店主 拝

お買取りのご依頼はこちらから
https://www.kitarou-shouten.com/contact/

店主がTwitterにてつぶやいております。たまにですが、、
https://twitter.com/kitaroushouten

#骨董買取
#キタロウ商店

【出張買取】八王子市にて CONTAX(京セラ) T2 他フィルムカメラ多数とデジイチ他をお買取りいたしました。

『CONTAX(京セラ) T2 』

今回ご紹介いたしますのは「CONTAX(京セラ) T2 」でございます。
京セラは1959年4月に元々は「京都セラミック株式会社」として設立されました。
光学機器製造に参入することになったのは1983年にヤシカ(光学機器メーカー)を合併吸収したことから始まります。
吸収合併したヤシカが1974年にカール・ツァイスと提携後CONTAX RTSを販売していたこともあり、京セラのCONTAXカメラが市場に登場していくこととなります。
それまで一眼レフのカメラが主体でありましたが高級コンパクトフィルムカメラとして
1984年にCONTAX T(レンズはCarl Zeiss Sonnar 38mm F2.8を採用)が発売となります。
またカメラデザインにはあのポルシェデザインも参加するなど話題となり発売され人気を博しました。
その後1990年にTシリーズの二代目として今回のお買取り品であるT2が発売されます。

さて、実際のお買取りの査定基準でございますが、
T2(含めすべての電子制御のカメラ)の一番のウイークポイントは電源が入らなくなることです。
また電源が入ってもレンズ格納部分のレンズが収納しきれずシャッターが閉まらなかったり、液晶表示が表示されなくなっていたりと故障が多いカメラではございます。
そもそも生産発売から30年ほど経過しておりますので仕方がないのですが現在修理が出来る部分も限られていいる上に修理費用も高価となり、
動作しない物不具合があるものにつきましては査定は低くなります。
またカメラ等(光学機器)はレンズやファインダー、(プリズム)にカビが出てしまった物につきましても査定は低くなります。
査定で大事なのは傷が少なく動作すること付属品がすべて残っていることとなります。
また1998年にT2販売終了後に限定2000台で販売されたT2ブラックはそれまでのT2の査定金額より高価となります。(※1991年に発売されたT2チタンブラックではありません)

お買取りをご希望の場合ご依頼時にカメラの機種名等をお伝えいただけますと
各種使用するバッテリーなどを持参し査定をさせていただきますので当日中に査定金額のご提示が可能となります。

お買取りのご依頼はこちらから
https://www.kitarou-shouten.com/contact/

店主がTwitterにてつぶやいております。たまにですが、、
https://twitter.com/kitaroushouten

【出張買取】神奈川県鎌倉市にて陳師曽(陳衡恪)の掛軸他多数をお買取りいたしました。

陳師曽(陳衡恪)

陳師曽(陳衡恪)については近年になり再評価(再発見)された文人画家でございます。
再評価(再発見)とは日本にもならず本国中国においても同じ状況のようです。
日本の明治期中期から後期にかけての日清両国の美術の架け橋となった人物であることは間違いはなく、欧州の美術にも造詣が深かったとされる人物であり両国への美術に多大なる貢献を期待されましたが、四十七歳という若さで急死してしまいます。
後に記しますが彼の生き急ぐような経歴をご覧ください。

 

清光緒2年3月2日生(1876)から民国12年9月5日没(1923)
本名:衡恪、字:師曽、号:槐堂・朽道人
父:三立(詩人)、祖父:寶箴(清末維新派政治家)
幼年期より父、祖父、そしてその関係の学者らより詩文、画、書、古典などを学ぶ
1898年 南京江南陸師学堂付設路鉱学堂に入学
1902年 弟、寅恪と共に日本へ渡り弘文館へ留学
この頃、江南陸師学堂の後輩、魯迅と寝食を共にする
1904年 東京高等師範学校に入学、博物学専攻
1906年 李叔同(東京美術学校画学生)と出会う
※李叔同は後に中国近代美術に多大な影響を与える人物
1909年 東京高等師範学校卒業し帰国後に江西の「教育司長」となる
1910年 南通師範学校教員を務める
1912年 李叔同が副編集長を務めていた「太平洋画報」にて絵画を発表
同年5月「南通師範校友雑誌」に「欧西画界最近之現状」を発表し欧州 画壇を紹介する。
1913年 湖南第一師範学校の教員となるが早々に辞職後北京へ赴き中華民国教育部の「編纂」の職に就く
1916年 北京高等師範学校手工科図画専修科の教員となる
1918年 新設した北京大学画法研究会の「中国画」の導師を務める
1919年 国立北京美術学校の「中国画」の教授を務める
同年9月、上海美術学校の創立者兼校長である劉海粟と共に東京にて美術と美術教育の視察
1921年 北京、1922年東京で開催された「日華連合絵画展」の実現に貢献する
同年、「中国文人画之研究」出版
1922年 日本で出版されていた中村不折「支那絵画史」をもとにした中国語版の「中国絵画史」を出版
1923年 南京にて急病にて没する 享年四十七

陳師曽(衡恪)
※出典※
福岡大学文学部様の研究発表
https://fukuoka-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=4059&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

お買取りのご依頼はこちらから
https://www.kitarou-shouten.com/contact/

店主がTwitterにてつぶやいております。たまにですが、、
https://twitter.com/kitaroushouten

【出張買取】埼玉県さいたま市にて紫檀家具唐木家具をお買取りさせていただきました。

『紫檀家具唐木家具』

埼玉県さいたま市にて骨董品から現代の工芸作家作品まで幅広くお買取りをさせていただきました。
今回ご紹介するのは紫檀製家具でございます。
紫檀製といいましても紫檀風に材料を染めて作られた物もございますが今回のご依頼品は一部分を除き完全な紫檀製でございました。
作りこみを見る限りは中国もしくは台湾で作られたものかと推測いたします。
なお日本国内でも紫檀等唐木を使った家具小物制作産地がございます。
大阪と東京の葛飾区あたりが有名なところとなります。
いずれの産地の製作者も癖の強い唐木を長い年月をかけて癖を読み取りながら
釘などは使わず作られております。
さて、実際の査定の基準となりますが、
中国または台湾から輸入されたものに関しましては使用している材料が唐木以外の着色材ですとお買取りは難しい場合もございます。
お買取りが出来る目安といたしましては輸入された時代が戦前期(1940年代以前)に大陸より日本国内へ入ってきたものとなります。
この時期の物に関しては紫檀や黒檀、花梨、黄花梨などを使用したものが通常で、唐木以外を使い場所は見えない場所等にわずかに使用する程度です。
またこの時期に日本へ渡ってきた海南黄花梨を使った家具類は
現在では黄花梨が絶滅したとされており大変貴重な物となり中国の裕福層が求めており査定価格は高い傾向です。
日本国内の紫檀製家具や唐木家具の場合は
上記の中国の裕福層はあまり関係はないのですが日本の職人が製作したものですので上記の中国の物よりは査定は下がりますがお買取り可能となります。
ただし現代の住宅環境の変化もあり大きな棚や座卓よりも
近年では小さめの棚や小引き出しといった物の方がお買取り対応が出来る場合が多いと感じます。

古い家屋のご処分時にそういえば和室の奥に、、、
思い出したその時はどうぞ弊店へご連絡ください。
他にも拝見させていただき思いもよらなかった物に高額査定が出るかもしれません。

お買取りのご依頼はこちらから
https://www.kitarou-shouten.com/contact/



店主がTwitterにてつぶやいております。たまにですが、、
https://twitter.com/kitaroushouten

 

【出張買取】平田重光造 静芳刻 純銀花瓶(貞明皇后拝領品)他をお買取りいたしました

『平田重光造 静芳刻 純銀花瓶 貞明皇后拝領品(御下賜品)』

出張買取にて純銀花瓶他をご売却いただきました。この度は弊店へのご依頼をいただき誠にありがとうございました。
さて、今回のご依頼品の一つでございます純銀花瓶のことについて少しばかりの駄文を。

花瓶本体につきましてはおいておきまして、
今回はその共箱の書付からお話は始まるのでございます。

拝領品、御下賜品というものに書付を残しておかれる方が多くおいでになり
店主はその書付がどのような物でも毎度毎度気になりまして、、、
今回のご依頼品にも共箱蓋裏にありました書付には以下のような記載がございました

「皇后陛下武庫離宮御典中 大正十一年三月十七日拝領」

とあり店主は気になってしまうのでございます。

武庫離宮、、、大正十一年三月十七日、、、

武庫離宮とは現:須磨離宮公園(神戸市須磨区東須磨)であり
大正三年に天皇陛下の宿泊施設として建造造園された施設となります。
設計は片山東熊(東宮御所他を設計)、庭園設計は福羽逸人(植物御苑、現:新宿御苑)でございました。
昭和二十年神戸空襲にて御殿他が焼失、戦後は進駐軍に接収され昭和三十一年に神戸市へ返還されました。
この離宮には大正天皇、貞明皇后、昭和天皇(当時皇太子)、愛新覚羅溥儀(満州国皇帝)がご宿泊されました。

次に気になるのは、
大正十一年三月十七日という日付
この年この月、皇后陛下は
「今上陛下御病気平癒御祈願」と「摂政宮殿下無事御帰朝御礼」の為、
福岡の香椎宮・箱崎八幡宮・太宰府天満宮への行啓が行われたとの資料を見つけました。
簡単に申せば、御病気の大正天皇の御回復祈願、摂政宮殿下(後の昭和天皇)のヨーロッパ御訪問から御帰りの御礼をするために皇后陛下は旅に出発されたということでしょうか。

資料を見ていて店主は?と疑問が浮かび上がったのであります。
行啓日程表があり眺めておりますと

「三月十日 葉山御用邸出発
静岡より御召列車にて同日須磨の武庫離宮着滞在
三月十三日 武庫離宮出発」

とありました。
?
今回のご依頼品には十七日とあるが、、、
十三日には武庫離宮を離れておられるではないか、、、

書き間違え、、、偽った物、、、

などと考えてみましたが皇后陛下と深いご縁がある方が偽る必要もない、、
では書き間違えか、、、

他の資料を探してこの日の本当の日程表を見つけました。
最初にみた日程表は当初計画された予定表であったようで
探し当てた山口県文書館の資料の中に

「皇后陛下御微恙による日程変更 武庫離宮で静養 武庫離宮出発十八日

との記述がありました。
皇后陛下はその行啓の中の武庫離宮滞在時に軽い発熱があり大事をとり、
当初の十三日出発ではなく十七日に武庫離宮まで静養の為滞在され、
その十七日に離宮内にて皇后陛下よりこの花瓶はご依頼者様のご親族に下賜されたものだと判明いたしました。

スッキリいたしました。

・・・

はずだったのですが
新たな疑問が、、、発熱による日程の変更
変更した出発日にお会いになる、、、
お会いになりたかったから発熱という、、、
そもそもこの離宮のすぐそ、、、

いけません。
これ以上を考えをめぐらせ、
ましてこのような場所へ書くことなど断じていけません。
私の頭の中での想像くらいでとどめておきましょう。
真実は皇后陛下と拝謁された方のみ知りえることなのですから。

店主 拝

お買取りのご依頼はこちらから
https://www.kitarou-shouten.com/contact/
店主がTwitterにてつぶやいております。たまにですが、、
https://twitter.com/kitaroushouten