【出張買取】世田谷区にて帝国陸軍将校用水筒他多数の軍装品をお買取りいたしました。

『帝国陸軍 将校用水筒』

帝国陸軍の将校用の水筒でございます。
年代、階級、陸海軍使用で形が変わります。また水筒という道具故戦後も様々な場所で使用されたことは容易に推測できますので、酷使されベルトが切れたもの、凹み、カバーやキャップ(蓋)の欠品等のダメージを受けて70年以上の年月を経過してきたものがほとんどでございます。
今回のご依頼品はカバーこそ虫食いでダメージを受けておりますがあとの部分は状態は良好なものでございました。

キタロウ商店では帝国陸海軍等戦時下のものを高価買取いたしております。ぜひ一度ご相談くださいませ。

 

 

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【出張買取】東京都世田谷区のお客様より 「三面大黒天」 をお買取りいたしました。

『三面大黒天』

大黒天は密教と共に我が国へ伝来したといわれております。
本来はヒンドゥー教のシヴァ神でございます。
ご依頼品は三面大黒天 制作年代ははっきりとはわかりませんが江戸期の物と推測いたします。
大黒天の長い歴史の中で初期のころは台所の守護として祀られたこともございます。最澄が開いた天台宗延暦寺台所にも今回のご依頼品とは様子が違いますが三面の大黒天あったとのこと、今回のご依頼品もかなり煤が堆積しておりもしかするとそのようなこともあったのではないかと推測いたします。

 

 

 

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【出張買取】東京都世田谷区にて「Leica M3」をお買取りいたしました

Leica M3

1954年(昭和29年)4月 全世界の正規代理店より一斉販売開始。
当時の日本価格は23万円でございました。この頃の大卒初任給が5000円ほどですので高根の花を通り越したカメラでありました。
後、様々な仕様変更のがあり1966年生産を終了しました。
生産台数が200万台を超えておりM3の全体を通しての話ではございますが比較的中古市場に出ることが多いカメラとなります。
大まかに分けて前期中期後期と3タイプに分かれ昔からの愛用者の方々は初期型(ダブルストロークのもの※2回巻き上げ式)が人気です。
買取査定ではこの3期に加え外観、内部機構の状態(オイル切れ症状による鳴き等含め)、付属品の有無 元箱がございます場合はカメラ本体にあるシリアルナンバーと箱にある番号が一致しているか?等も確認いたします。状態が悪い場合は外注修理代が高額のため査定価格が低くなることもございます。

ライカM3を含めカメラのご処分をお考えの際は是非一度ご連絡をいただけますと幸いでございます。

 

 

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松本楓湖(軸装)世田谷区にて出張買取致しました。

松本楓湖

天保11年9月14日(1840年10月9日)
常陸国河内郡寺内村に松本宗庵の三男として生まれる。
名は敬忠。通称藤吉郎。父宗庵(漢方医)。
嘉永6年(1853年)
鳥取藩の御用絵師・沖一峨に学ぶ。
安政2年(1855年)
16歳のとき「洋峨」の号で、地元茨城県の実家近くの逢善寺本堂天井画「天人図」等を描く。
安政3年(1856年)
谷文晁の高弟 彦根藩御用絵師佐竹永海の画塾に入りし画号を永峨と改める。
文久2年(1861年)
この前後より尊皇運動に転じ水戸藩の武田耕雲斎や藤田小四郎らと交わり勤王党を援助する。
元治元年(1864年)
天狗党の乱が起きるとこれに参加、幕府軍に敗れて一時郷里で蟄居する。
慶応元年(1865年)
江戸に戻り画業に専念する。
明治元年(1868年)
画号を楓湖に改める。
明治15年(1882年)
宮内省より出版された欽定教科書『幼学綱要』において、
大庭学仙、竹本石亭、月岡芳年、五姓田芳柳らの候補の中から楓湖が選ばれ、
全7巻62図の挿絵を描き一躍名を轟かせる。
明治20年(1887年)
『婦女鑑』(全6巻)の挿絵を担当する。
明治31年(1898年)
日本美術院の創設に参加する。
明治27年(1894年)
第4回内国勧業博覧会に「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」出品
明治40年(1907年)
第1回文展に「静女舞」出品、文展開設当初から第4回まで審査員
大正8年(1919年)
帝国美術院会員となる。
大正12年(1923年)
6月22日歿。東京谷中初音町の全生庵に葬られた。

松本楓湖(軸装)