買取実績-尾竹竹波 掛軸

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骨董/古美術/書画

尾竹竹波 掛軸

尾竹竹波 掛軸  東京都府中市にて骨董古道具の出張買取でご売却いただきました。

尾竹竹波 掛軸 絹本


明治11年(1878年)1月12日、現在の新潟市に生まれる。
本名・染吉。

4歳で南宗派の笹田雲石に学び、竹坡の雅号を受ける。
6歳の頃には花鳥画を器用な筆捌で描き上げ、神童と言われたという。
明治24年(1891年)富山へ転居
兄・国一(越堂)とともに生活のために売薬版画の下絵や新聞 挿絵を描く。
弟・国観が『小国 民』の全国児童画の一等賞を得たことを縁に、富山から同誌に挿絵を送る
ようになる。
明治29年(1896年)2月に国観とともに上京して川端玉章に入門。
日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会等で受賞を重ね、人気が高まる。
当時、横山大観ら東京美術学校出身作家の作品の売価が100円から200円だった時代に
500円の高値で売れ、これに気を良くした二人は腕力に任せて暴走する傾向も見られた。
明治37年(1904年)国画会で戦争展覧会を開いて盛況
明治38年(1905年)若手作家を糾合して大同画会を発足させ、国画玉成会へ合流する。
玉成会の一員として文展に出品することになり、今村紫紅、安田靫彦らと五浦研究所に逗留
明治40年(1907年)の第1回文展入選作「羅睺羅」を描く。
明治41年(1908年)10月岡倉天心と玉成会の審査員を選ぶ酒席で天心が、
当時の人気と業績からすれば後輩に当たる靫彦ら数名の青年を
独断で指名しようとしたため衝突する。
憤慨した竹坡は国画玉成会を弟の国観とともに退会し
以後天心一派とは袂を分かつことになる。
天心は尾竹兄弟の才能を認めていたが、
天心の考える日本美術の特色、壮麗で優美さを求める高い志を持とうとしない兄弟に
不満を持ったとされている。
明治42年(1909年)第3回文展で『茸狩』(現在行方不明)が三等賞
明治43年(1910年)『おとづれ』文展出品
明治44年(1911年)『水』が文展二等賞(最高賞)
大正2年(1913年)第7回文展落選
大正4年(1915年)衆議院議員に立候補するも落選
昭和11年(1936年)6月2日気管支喘息により歿(58歳)

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